日本刀は、わずかに湾曲した片刃のものが主流ですが、この基本形は平安時代の中頃、武士が誕生し、さらに騎馬戦が戦の主流となったころからです。それまでの刀は「直刀=たち」と呼ばれる真っ直ぐなものでしたが、馬上から振り下ろしやすいように湾曲した形状(太刀=たち)になったものです。日本刀の姿は、その後、時代とともに変遷します。そこで現在では、平安時代初期から天正末(1595)までを古刀(ことう)、慶長(1596)から享和(1803)までを新刀(しんとう)、文化(1803)から慶応3年(1867)までを新々刀、明治以降に出来た刀を現代刀と呼んで区別しています。
我が国の刀は、この刀身、そして鍔(つば)、鞘(さや)、握る部分の柄(つか)、下げ緒(胴に結ぶための紐)の大別されますが、これら刀装具と呼ばれる部分にもまた武士の魂が込められていて、決して単なる装飾品ではなかったのです。自らの生命を預かる刀。刀装具は、実用性とともに、重要な刀身を守り、武士の魂を荘厳する重要な意味を持っています。刀を持たない武士は武士とはいえず、刀のすべては、武士の魂そのものとさえいえる重要な道具だったのです。
名職人たちが武士のために、全魂をかたむけ、持てる英知と技術のすべてを注いで、さまざまに荘厳され尽くされた刀。だからこそ、今なお、私たちの胸を打ってやまない力を秘めているのでしょう。
窓からの光の中で、畳一畳分の間隔をあけてお話を進めると、じっくりと長く話しても疲れず集中も出来て最適なんです。
武家社会は、徹底した男尊女卑の社会であったといわれています。しかしそれは、決して女性を軽んじめていたというわけではないように、私には思われます。
武家社会にあっては、男性は生命を賭けて戦い、家を、部族を、国を守る存在であり、女性はその家を守り、育む存在でありました。その故に、男性は家を 象徴する存在となり、女性はその家に仕えて、未来を育む存在となっていったのです。
父は子供にその背中を見せて生きる存在であり、母はその生命を生み育む存在であることは、今も変わりません。生き方を無言のうちに示して生きる、そんな父親像が再び求められているように、私には思えます。
父の大きな背中は、何よりも安心感を与え、子供を健全に真っ直ぐに育てて行くことでしょう。
また一方、母の愛は「海よりも深い」といわれるが如く、子供にとっては永遠なる存在です。
そう考えてみると、武家社会の男女に対する考え方は、簡単に否定されるものではなく、その精神の大切な部分が現在もなお求められている、つまり未来を生きる人々にも大切な何かを教えてくれるものであるといえるのではないでしょうか。
刀は光に反射させてこのように見ると、刀の状態がわかる…と、正宗を持って解説する柏原氏
正宗は、鎌倉時代末期に登場した刀工第一ともいえる名工です。彼は生没年代は不明ですが、諸国を回って修行した後、師・国光から伝わる相州伝を完成させたことがわかっています。
正宗の刀は伸びやかな曲線と精錬さの中に秘められた躍動感が特徴で、現在もその子孫が鎌倉に在住し、正宗の伝統を受け継いでいます。
正宗の刀は、600年の時を超えた現在でさえ、その輝きは色あせません。 「今もなお、確かに生きている」そう思わずにはいられないほど、新鮮な輝きと息遣いが感じられるからです。
女性には叱られるかもしれませんが、「まるで処女のような初々しさ」の前に、私は、この刀の前にするとき厳粛な面持ちにならざるを得ません。
名刀の手入れは年1、2回ほどで十分です。それほどまでに鍛え抜かれ、錆びることを寄せ付けない威厳に満ちているのです。「人を切る道具」、それはまた「自らの生命を守る存在」でもあります。
刀鍛治師たちは、武士たちが「戦争」というやむなく敵を切らざるを得ない状況の中で、相手の生命をさえ敬う精神を、この一本の刀に鍛え込んだと思えるのです。武士道の精髄、それが、名刀に今も脈打っていると私には思えてなりません。
朱は、きわめて日本的な色彩といっていいだろう。かつて「赤」とはこの朱色のことだったのだ。
津和野にある亀井家の家紋をあしらった屏風。めでたい年の初めに、心新たになる屏風です。鮮やかな朱に白の家紋が大きくデザインされたこの屏風は、シンプルな中にも華やかさがあり、武家の勇壮ささえ感じられる屏風といえるでしょう。
屏風は元来、貴族の邸宅の間仕切り、風除けなどのための調度品として生まれたものです。源氏物語の絵巻物を見てもお分かりのように、かつて貴族の邸宅には襖(ふすま) などはまだ誕生しておらず、屏風が、襖の代わりとして間仕切り、風除けの役割を果たしていたそうです。
また儀式などを執り行う際の、背景を飾る道具としても使用され、当時、宮廷・貴族・寺院などの当時 の屏風には、そうした儀式にふさわしい絵が描かれていました。
襖などが誕生し、実用的な意味から開放された屏風は、その後、美術調度品としての意味合いを濃くして行きます。
そうして、重大な合戦や美しい風景・風俗などが描かれることになっていくのです。
亀井家家紋屏風は、その中にあって、大胆な構図の中にも格調の高い、本来の儀式的な意味合いも含ませた、現代に通用する優れた美術品といえるでしょう。
刀身には元来、その刀身のためだけに作られた鞘があるものだ。
「元の鞘に収まる」という言葉があります。その意味は、刀がそのために作られた元々の鞘に収まることが もっともいいのだ、ということからきており、「本来、あるべきところに帰る」という意味として使われるようになりました。
さて、では、なぜこうした言葉が使われるようになったかといえば、江戸も末期に近づくにつれて、武士もだんだん食べて行くことが難しくなり、とりわけ禄高の少ない下級武士や浪人は、貧困にあえぎ傘張りなどのアルバイトに精を出すようにもなります。それでも食えない武士は、刀身だけは 武士の魂として持ち、鞘だけを売る者、また逆に鞘は格好をつけるために身に付けておき、刀身を売る者など が出てきます。
また刀がコレクションとして広まるようになってからは、刀と鞘を別々に売る(そのほうが 利益があったからです)骨董商人なども登場し、刀身と鞘が別々に歩き出していったのです。 こうして現在では、刀身と、元々その刀身が納まっていた鞘との両方をきちんと持っている人も少なくなってきました。元の鞘に収まっている刀は非常に少なくなってしまったのです。 鞘はもともとただ一振りの刀身のために作られたものであり、「元の鞘に収ま」った姿こそ、 本来の刀のあるべき姿なのです。
柏原美術館は、歴史的な名橋として名高い錦帯橋(きんたいきょう)を渡った、かつての城域内にあり、美術館に間近いロープウエイを上れば岩国城があります。城下町と城域を結ぶ役割を果たしていたのが、この錦帯橋なのです。
この橋から見る風景は、まさに絶景。この緑の山と美しい川の調和を織りなすように、錦帯橋は架かっています。
錦帯橋が建造されたのは、三代藩主・吉川広嘉の時代、1673年のことでした。何度も流失する当初の橋とは違う、恒常的な橋の建設は、まさに藩主と城下町の人々の夢だったのです。
吉川広嘉は、流失しない橋の建造を家臣の児玉九郎佑衛門に命じ、彼をリーダーとする家臣はこの難題に挑戦して、ついに現在の美しい錦帯橋の建造に成功します。
錦帯橋は、その後何度も流失しますが、それでもまた同じ技術を使って同じ橋が架け直されてきました。
最後に流失したのは昭和25(1950)年のこと。しかし翌年には再建されます。現在の錦帯橋は、さらに修復され建造当時の美しい面影が再び甦っています。